西暦備考
二三〇



















太和四







二月 曹真を大司馬に、司馬懿を大将軍に、公孫淵を車騎将軍に任ずる。

四月 魏の太傅の鍾ヨウが死去。
曹真と司馬懿が蜀に兵を進める。

九月 雨にたたられて、軍を引く。

建興八











四月 諸葛亮は成固の赤坂で魏軍と対峙する。






黄龍二

 孫権は、衛温と諸葛直とを夷洲・亶洲の探索に派遣する。
夷洲は発見されたが、亶洲には行きつけず。













 
二三一










太和五

三月 大司馬の曹真が死去。

十二月 太尉の華[音欠]が死去。
司馬懿が長安にあって、蜀と対峙する。


建興九




十二月 諸葛亮が[示β]山を包囲し、「木牛」を用いて軍糧を運ぶ。
軍糧不足のため。諸葛亮は兵を引く。

黄龍三




十二月 潘濬・呂岱が五谿の異民族を討伐する。
明年より嘉禾と改元することを決める。


 
二三二





















太和六










七月 董昭を司徒に任ずる。

九月 許昌に宮殿を営み、景福殿・承光殿を建てる。

十一月 曹植が死去する。


建興十





















嘉禾元

正月 孫権の末息子の孫慮が死去、太子の孫登が武昌から建業にうつる。
孫権は、周賀・裴潜を使者として、海上から遼東におもむかせ、公孫淵から馬を求める。








十一月 周賀は、成山においてその帰途に魏の田豫に襲われ斬られる。

 
二三三



















太和七
明帝 [青龍元]

正月 摩陂の井戸に青龍が出現。

二月 明帝はそれを見に行き、青龍と改元する。








十二月 公孫淵を大司馬に任じ、楽浪公に封じる。

建興十一



















嘉禾二





二月 公孫淵は使者をおくって、呉に帰属したいと伝える。

三月 張弥・許晏らをおくって、公孫淵に九錫を授け、燕王に封じる。
公孫淵は、呉の使者を斬り、その首を魏に送る。





この歳、孫権は合肥新城を攻めようとするが、満寵のために敗れる。

鮮卑の軻比能と歩度根とは、しめしあわせて魏にそむく。

陳寿が生まれる(〜二九七)。
二三四























青龍二

三月 山陽公(後漢の献帝)が死去。

四月 司馬懿は、五丈原で諸葛亮と対峙する。








七月 明帝がみずから呉の討伐におもむく。







建興十二




四月 諸葛亮は、十万の兵を率い、斜谷から[眉β]・五丈原に出て、司馬懿と対峙する。









八月 諸葛亮が陣中で死去。
蜀軍中で楊儀と魏延とが勢力を争い、混乱がおきる。

嘉禾三









五月 孫権が合肥新城に兵を進め、別働隊として陸遜・諸葛瑾らは襄陽へ兵を進める。

七月 孫権は、曹叡の来襲に兵を引く。







この歳、王戎が生まれる(〜三〇五)。
二三五









青龍三

正月 司馬懿が太尉となる。






建興十三

正月 楊儀は、魏延を殺したが権力を握れず、自殺をする。

四月 蒋を大将軍・録尚書事に、費[示韋]を尚書令に任ずる。

嘉禾四









この歳、幽州刺史の王雄が刺客をおくって、軻比能を暗殺する。
二三六


















青龍四






四月 崇文観を設置し、文章家たちを召し集める。

七月 高句麗王の位宮が、呉の使者の胡衛らの首を幽州の役所にとどける。

十二月 司空の陳羣が死去する。

建興十四


















嘉禾五

 大銭五百を鋳造する。

三月 張昭が死去する。













 
二三七






























青龍五
明帝 [景初元]

三月 景初と改元し、青龍五年三月を景初元年四月とし、服色(王朝の色)を黄色に定める。
太和暦を景初暦と改める。

六月 陳矯を司徒に、衛臻を司空に任ずる。
明帝は毋丘倹をつかわして遼東の公孫淵を討たせるが、遼水の出水のため、兵を引く。
公孫淵は自立して燕王を号し、紹漢という年号を立て、百官の制度を整える。

七月 司徒の陳矯が死去。

九月 明帝は、郭夫人を愛し、毛皇后を殺す。

十月 洛陽の南に円丘を作り、天を祀る場所とする。

建興十五






























嘉禾六






























この歳、魏は長安の銅人などを洛陽に移す。
二三八








































景初二


正月 司馬懿を遼東の討伐にむかわせる。
公孫淵は呉に救援を求める。

二月 韓曁を司徒に任じる。

四月 司徒の韓曁が死去する。

六月 司馬懿は遼東にいたり、公孫淵を襄平に包囲する。

八月 襄平は陥落し、公孫淵父子は梁水のほとりで斬られる。
遼東・帯方・楽浪・玄菟の四郡はみな魏に属する。












十一月 衛臻を司徒に、崔林を司空に任ずる。

十二月 明帝の病気が重態になる。

後主 [延煕元]







二月 張氏を皇后に立て、劉[王睿]を皇太子に定める。






























嘉禾七
大帝 [赤烏元]






二月 大銭当千を鋳造する。














九月 赤烏と改元する。

このころ呉では孫権の信任をえた呂壱が権力をふるったが、やがて悪事が発覚して呂壱は誅殺される。
孫権は呂壱を寵愛したことを自己批判し、武将たちにわびる。







この歳、倭の女王卑弥呼が使者を魏におくる。
魏は卑弥呼を親魏倭王に封ずる。
二三九























景初三

正月 明帝は、司馬懿に後事を託し逝去する。
曹芳が即位。これが少帝、ときに八歳。
曹爽と司馬懿とがその後見にあたる。何晏・丁謐らが曹爽と結んで権力をふるう。

二月 司馬懿を太傅に任ずる。

三月 満寵を太尉に任ずる。








延煕二










二月 蒋を大司馬に任ずる。











赤烏二
















十二月 武将の廖式が反乱をおこし、零陵・桂陽などの郡を攻めて、騒動は交州の諸郡に及ぶ。
呂岱がその討伐にあたる。

この歳、西域から火浣布が献上される。


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